Dear Japanese: children of war
「ディア・ジャパニーズ」は、オランダ在住の日本人写真家としての個人的な視点から撮影された、日本軍占領下のオランダ領東インドで生まれ、現在はオランダにすむ日系オランダ人たちのドキュメンタリーである。
ポートレートの中で、日系オランダ人たちはレンズの向こういる私たちをまっすぐに見つめている。彼らの視線は、自分たちは誰なのかを見よ、と問いかけている。オランダ人やインドネシア系の人びとには彼らの顔はオランダ人に見えないかもしれない。一方、日本人の目に彼らは自分たちとよく似ていると映るであろう。また、ありふれたオランダの風景は写真家自身や日系オランダ人たちにとって、見慣れない景色だったであろう。これは、オランダへの日本からの移民としての個人的な視点から撮影された、海外の同国人の主観的なドキュメンタリーである。写真家と被写体たちは、日本人としての誇り、また疎外感や罪悪感などを共有することになった。
歴史的背景
16世紀から300年以上続いたオランダによるインドネシア支配の間、「インド=ヨーロピアン」と呼ばれるヨーロッパとアジアの混血人口が出現した。1942年、日本はオランダ領東インドを攻撃、占領した。その後の3年半は日本の軍政下に置かれ、30万人近い日本人が駐留した。蘭領東インド軍に徴兵された男性が俘虜収容所へと収容されただけでなく、オランダ国籍を持つほとんどの男性も日本軍の民間人収容所へと入れられた。
男性たちが収容されると、多くのインド=ヨーロピアンの女性たちは自活のため、日本人のいる事務所や飲食店などで働くようになった。占領者たちとの接触から親密な関係もできたが、同意のもとの真剣な交際もあれば、意に反して関係を持たざるを得なかったケースもあった。そして、子どもたちが生まれた。 戦時中、インドネシアで生まれた日系の子どもは数万人とも言われるが、今日でも詳細な数は不明である。
日本の降伏後、インドネシアでは4年間に渡る非植民地化とオランダによる大規模な軍事行動の混乱が続いた。この間、日本人の子どもを持つ母親たちの多くは、コミュニティの中で孤立し、その家族たちは日本人の血を引く子どもたちの生い立ちについて口を閉ざすようになった。
非植民地化の結果、多くのオランダ人とインド=ヨーロッパ系の人々はオランダ国籍を選択し、見知らぬ祖国オランダへと引揚げた。日本人の子どもの母親の多くは、俘虜としてアジア各地での強制労働の経験をもつ男性たちと結婚した。強制労働の現場では虐待や栄養失調などで多くの命が失われたが、生き延びた人びともトラウマに生涯苦しむことになった。日系の子どもたちの風貌が苦しい記憶を呼び起こすことから、彼らはその幼少期に養父たちのトラウマに直面した。日系のこどもたちは家族、そしてコミュニティの中で孤立する存在となった。
オランダ移住後も、子どもたちの日本のルーツは家族の秘密とされたままだった。命を奪い、祖国である蘭領東インドを終焉させた日本に対する敵意を孕んだコミュニティの中で、多くの日系の子どもたちは成長した。大戦終戦から70年以上が経った今でも、多くの子どもたちは自身のアイデンティティの欠けたピースを埋めようと日本人実父を探し続け、子ども時代のトラウマに苦しんでいる。彼らは日本人としての誇りを持ちながら、自分のルーツのパズルを解くために父の国にあこがれている。
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