Stateless: War Displaced Filipino Japanese

ドキュメンタリー

2020年の終戦75週年という節目の年も過ぎた。昭和どころか平成という時代も終わりを迎えた。太平洋戦争を直接知る世代は減る一方で、祖父母さえも戦後生まれという若い世代も増えている。そんな中、戦争の暗い影のもとに生まれ、そのネガティブな影響を強く受けて生まれ育ち、今日に至る人々がいる。「フィリピン残留日本人」。終戦時、戦場となり破壊されたフィリピンに取り残され、差別と貧困の中で生きてきた人たちだ。

19世紀末から第二次世界大戦終戦時までの約半世紀の間、多くの日本人が豊かな暮らしを求めて海外へと渡っている。旧満州、朝鮮、台湾、樺太などのアジアの国々、そしてフィリピンへ。当時はアメリカの植民地だったフィリピンにも最盛期には約3万人(1)、累計は5万3千人(2) と言われる日本人が渡り、ルソン島でのベンゲット道路の敷設工事を始めとする様々な仕事に従事した。1905年にこの道路工事が完了すると、失業した大量の日本人労働者の中には実業家、太田恭三郎の呼びかけにより、ミンダナオ島ダバオへと移るものも多く現れた。太田興業(3)や古川拓殖(4)などの日本人設立による会社が、第一次世界大戦による特需を背景に、軍需産業としての側面もあったロープの材料となるアバカ麻(マニラ麻)産業が栄えた。このような状況の中、ダバオを中心として定着性の高い日本人移民社会が形成され、ダバオには日本人街もできた。元はバゴボ族首長の名を取ってインタルと呼ばれていた地域は、前出の太田により日本人社会の繁栄を願って「民多留」(ミンタル)と名付けられた日本人街になった。ミンタルには雑貨店や食堂などの日本人の商店が多くあっただけでなく、学校、神社、寺、新聞社、墓地まで存在していた(5)。日本人の中には現地の女性と結婚する者も多く、その間には多くの日系の子供たちが生まれたが、この二世の数はフィリピン全体で約3千人と推測される(6)。

太平洋戦争が始まると、フィリピンも戦場になった。4年近く日本の軍政下におかれていたダバオの邦人たちも国家総動員体制に組み込まれ、徴兵、軍属への徴用があっただけでなく、通訳などとして軍への協力をすることになった。ダバオでは邦人男性たちによる義勇軍も組織され、例外なく皆が戦争へと巻き込まれた。1945年3月、圧倒的戦力を誇る米軍がミンダナオ島に上陸すると、日本人、日系人たちは戦死したり、ゲリラによって殺害されたり、ジャングルで逃走中に病死、行方不明となる者が相次いだ。ダバオ地域だけでも約8500名の民間の邦人が命を落としたと言われている(7)。

日本が降伏すると、15歳以上の男性日本人移民たちは一旦収容所に集められた後に(8)、「敵性国民」とされて例外なく日本へと帰国させられた。そして、そのフィリピン人妻たち、生まれた子供たち、つまり日系二世たちはフィリピンに取り残された。フィリピン各地で確認された二世の数は、2015年3月で3,545名存在することが判明している(9)。

戦後、約111万人という犠牲者を出したフィリピンには、強い反日感情が残った。そんな中、「ハポン」(日本)と蔑視された日本人の子供たちは日本人としてのアイデンティティを隠して生きてきた。日本語の名前をフィリピン風に変えたり、奥地にひっそりと身を潜めながら生き延びざるを得なかった。そのような状況の中、日本人の子供たちは十分な教育を受けられず、幼い頃から労働をしつつも貧困から抜け出せないまま今日まで生きている人々も少なくない。

戦時中、敵だった日本のルーツを隠すため、日本人たちは出生証明など身元を証明する書類を破棄したり、隠したまま失ってしまうことが多かった。それにより、日本では1984年末まで続いていた「父系血統主義」によれば生まれながらにして日本人であるはずのフィリピン残留を余儀なくされた「日本人」たちの中には、無国籍状態で取り残されたままの人々も多い。

1956年に日本とフィリピンの国交が正常化されると、残留日本人の中から自らのアイデンティティを確認しようとする者も出てきた。2007年に設立されたPNLSCフィリピン日系人リーガルサポートセンター(東京都新宿区)が残留日本人たちの身元調査、国籍の取得などで支援を続けている。PNLSCの尽力により、約700人の残留日本人の身元が判明し、3世、4世が日本での定住と就労が可能になることで、残留日本人たちの貧困からの脱出の道が出来てきた。その一方、PNLSCではさらに約800人の残留日本人の身元調査や国への働きかけを続けており、老齢の域に入って長い彼らの救済が急務となっている。


(1) PNLSCホームページ
(2)  「日系人」から「残留日本人」への転換、大野俊、「移民研究年報」第22号、2016年3月
(3) 太田恭三郎(1876〜1917、兵庫県生まれ)が1907年ダバオに設立
(4) 古川義三(1888〜1985、滋賀県生まれ)が1914年ダバオに設立
(5) まにら新聞Web、酒井善彦、2003年4月14日
(6)  PNLSCホームページ
(7) 「日系人」から「残留日本人」への転換、大野俊、「移民研究年報」第22号、2016年3月
(8)  PNLSCホームページ、15歳以上の女子は帰国または残留、フィリピン人妻と15歳未満は残留
(9) 「日系人」から「残留日本人」への転換、大野俊、「移民研究年報」第22号、2016年3月

ノミネート:
Kuala Lumpur International Photo Award
「Unyielding Gaze」

展示:
Addis Foto Fest 2020

Lucio

ルシオ・ヨシオ(1943年生まれ)は、本当は歩いて1時間以上もかかる山の中の村に住んでいるが、この日はわざわざ村の近くにある農作業用の小屋まで出てきてくれた。林の中の村には電気もガスも来ていない。
父が終戦時に行方不明になり、母はルシオがわずか8歳のときに死んだ。その後は学校にも行けず、引き取られた親戚の家で農作業の手伝いをして生きてきた。質問を投げかけても返ってくる言葉は少なく、ルシオはどこか淋しそうな顔をするのみ。

Ramona

ラモナ・マサコ(1943年生まれ)は、山の中の小さな村に夫と住み、サリサリストアを営みながら鶏やアヒルを飼っている。戦争が始まると父は軍に協力させられ、日本の降伏後は帰国させられた。その後、父からの連絡は無かったが、2011年に熊本県の父の身元が判明。子供たちは日本に出稼ぎし、市内に家を建てることができた。

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戦前の古川拓殖興業のマニラ麻の倉庫。終戦近く、米軍からの激しい銃撃の跡が残る。

Bullet-holes

古川拓殖興業のマニラ麻の倉庫に残る銃痕。

Kyoko

キョウコ(1944年生まれ)は、ダバオ市内の小さな手作りの住宅が混み合う、かつての不法占拠地域に住んで、十字路に面したサリサリストア(雑貨店)を営んでいる。ここに来たばかりの30年以上前、手ずから植えたマンゴーは大木に育ち、店のトタン屋根に日陰を作っている。クリスマスに日本から返ってくる子供たちのため、マンゴーは収穫せずに待っているが、熟れた実は大きな音を立てて屋根に落ちてくる。 落ちたマンゴーを拾おうと、店の周りには近所の子どもたちが集まっていた。

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Bathhouse

戦前の日本企業が労働者用に作った公衆浴場の跡。ミンダナオ島、トリル

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ルシオの息子たち。

Innocencia

イノセンシア・ユニコ(1945年生まれ)は竹を編んだ質素な家に住んでいる。小学校に入るとき、日本人の子供へのいじめを恐れ、それ以来イノセンシアと名乗っている。二度の棄却の後、2018年5月にようやく「就籍」を認められた。これから日本に出稼ぎに行こうと子供たちは意気込んでいる。

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1942年生まれのミノルは、戦闘から逃れようと山に入ったときに、姉と兄を亡くしている。

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ダバオ市トリル。戦後すぐここに日本人の収容所が置かれた。一旦この収容所に終結させられた後に、日本人たちは帰国させられた。

Merna

メルナ(1967年生まれ)は、ヤスコ・アナコリータの娘の日系三世。ダバオ市内から車をとばして4時間かかるダバオ・オリエンタル州に住んでいる。祖父が福島県出身のスガノと判明し、就籍により三世として日本での就労が可能になった。8年ほど日本で働いた。日本での経験を問うと、ただ寂しそうな微笑みだけが返ってきた。多くは語らなかったが、祖父の国、日本での就労は、「外国人」として大変な思いが多かったことが察せられた。

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マサオの経営する小さな商店。彼の孫が練習したひらがなやかたかながトタンの壁に残る。

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山中の村にあるヤエコの竹の家。二人の孫が戸口から覗いている。

Yaeko-Masao

姉のヤエコ(1941年生まれ)と弟のマサオ(1943年生まれ)。ヤエコの家はまだ電気も通らない山の中の村にある。終戦直後、引き揚げ間近の父に会いに収容所まで母に連れられて行くと、父が泣いていたのを覚えている。マサオは母から教えてもらった日本の歌を今も歌える。「ミヨ、トーカイノ、ソラアケテ、、、」。ヤエコの家ではとうもろこしを作っているが、この頃は土地が痩せてしまい、収穫が減ってしまった。農業の知識も乏しく、土壌の改善もままならないでいる。

Yaiko-Toyama

込み入った不法占拠地区の一角にある、木のはしごを登る小さな家にすんでいるヤイコ(1943年生まれ)。幼い頃からずっと「ヤイコ」と呼ばれていたが、自分が日本人だと初めて母から聞かされたのは、10歳のときだった。戦争で徴兵された父ヒロシは戦闘が激しくなった頃に行方不明になり、二度と戻ってくることはなかった。

Cape-St-Agustin

サン・アグスティン岬の突端、沈没する船も多かったと言われるこの海域を見守られるために戦前に建造された灯台から望む小島

Buffalo

ヤエコの家には道路に車を乗り捨ててから山道を30分も上り下りしてたどり着く。途中、水牛の親子がいた。母牛は見知らぬ侵入者(著者)から仔牛を守ろうとしていた。車の通れない山道での荷物運びには、今でも水牛が使われている。

Oligario

オリガリオ・マサオ(1945年生まれ)は、石だらけでゴミに埋め尽くされそうな小さな谷を囲む不法占拠地区に住んでいる。訪れたとき、谷間には早くも夕闇が迫っていた。周りの家々はみな手作りのように見える貧しいエリアで、それぞれがココナツの加工や洗濯などを生業にしている。マサオは小学校3年で学校を辞め、ずっと農業の手伝いをしていた。2016年に就籍が認められ、娘たちは日本に出稼ぎに行けるようになる日を待っている。日本で働けば、この貧しい地区から抜け出せるかもしれない。

Satoko

サトコ(1942年生まれ)は、バナナプランテーションの中にある小さな集落の貸家に住んでいる。電気もガスもなく、蚊が渦をまいて飛んでいる。終戦後、父が不在になった一家で、母、姉、サトコは貧しい暮らしから抜け出せないままだった。サトコの記憶では、日本人の子供と白い目で見られるよりも、貧しさのほうが辛かった。2013年に就籍が認められ、娘のロリータ(1970年生まれ)は就労許可が整い次第日本に出稼ぎに行き、母と一家を支えようとしている。